こんばんわ^^
いま僕はとてもつらいです。
はい、昨日書いたように9年間一緒に暮らしていた家族がもう帰ってこないからです。
今日の朝、ささやかながらお葬式がありました。
最後のお別れをするときに、なぜだか涙が止まりませんでした。
なかないようにと思っていたのに、いざ別れとなると涙が止まりません。
いつか聞いた歌の歌詞に、上を見ていれば涙は乾く、といったフレーズがありましたが、あれはうそだと思いました。少なくとも、この場面では。
しかし、火葬が終わって骨壷に骨を収めるとき、なかないように、笑顔で家族と話しながら収めました。
家に帰ってからも、家族はせわしなく動き、写真を立てたり、お供え用の仏壇のような場所を作ったりとあわただしかったです。昔の話をしたりもしました。
骨の収められた骨壷は49日までは家において置くようなので、10月の半ばまでは仏壇の上においてあります。
そのあとに、学校の後輩2人が家に遊びに来ました。(後輩といっても特につながりはないし、あっちも先輩と思ってない
後輩にはペットが死んでしまったことは言っていません。変に気を使われるのもいやなので。
普通に遊んで、心が落ち着いていたんでしょう。とても楽しかったです。この場を借りて二人に、ありがとう。心が沈んでるときにはとてもありがたいことだと思いました。
いまこの文を書いている私も、少し涙が流れています。
文にするとまた実感してしまうものですね・・・。
昨日は前を向いて〜とかいったのにすいません。
できるだけ早く立ち直って、周りの人に迷惑をかけないようにがんばります。
しかし、時々思うことがあります。
なぜ動物は死ぬのだろう、と。
逆を言えば動物はなぜ、生まれるのだろう。生を宿すのだろう。
理由はあるのかもしれない。私はバカだからそのへんのことは考えない。考えれない。
自分の主張を振りかざすだけ。そんなのはわかっている。
しかし、動物が生を受けるのに、それほど意味があるのか、と思ってしまう。
生を受けて、新しい性が生まれるのを”見る、感じる”のは、うれしいだろう。
しかし、それは当の本人は”わからない”のである。感じることができないのだ。
生きていてよかった、生まれて来てよかった、生んでくれてありがとう。そんないい答えを出してくれる人間なんて極わずかだ。ほかの動物にいたっては、本能で繁殖しているだけに過ぎない。
しかし、死んでしまえばやはり悲しい、当の本人はどうか知らないが、周りはほぼ、悲しむ。(殺人などを除いて
生は喜び、死は悲しむ。それは人間のエゴではないのか。
そして、生命(ほぼ人間のこと)が増えていき、住む場所柄を確保するため、資源を確保するための森林伐採や、人のごみの廃棄や生活の負の面による環境汚染、ほかの動物のいい迷惑ではないだろうか。
そして、飼っているペットの死は悲しむくせに、道路で弾かれて無残に死んでしまっている猫や狸、その他の動物や、食料としている豚や牛、鶏や魚や、特殊なところではワニなど、そして、それらの生まれる前の卵の状態でも、人は殺して食べてしまう。ここに悲しみはない。なぜなら、食品になるための死は、われわれの日常にはとても遠いから。これは不平等ではないか。人間は男女不平等や格差社会、異国差別や人種差別など様々な差別を「いけないこと」としている。
環境は壊す、言ってることとやってることが極端に違う、悲しみを盾にしてエゴを振りかざす、こんな最低な生物は「人間」だけだ。そして、人間とほかの動物の決定的な違い、それは知性があるかどうか、だと思う。これに対して、
なぜ人間だけに「知性、理性」があるのか、なぜ人間にはそれがあるのか。もしくは、なぜ人間は生まれてしまったのか、と思ってしまった。なぜ早く滅びない、とも思う。
日本人は意味のないことを嫌う、ゆとりがない、などといわれるが、本当に意味のないことは「人間の存在自体」だと私は思う。人間がいなければ環境は汚染、破壊されないし、ほかの動物の「本能」による狩猟以外の「無駄な死」がなくなる。それに、無駄な人間特有の「悲しいと思う」感情もなくなる。つまり、悲しむ人がいなくなる。悲しみを盾にして物事から逃げたり、被害者面するぐらいだったら人類なんていらないと思う。地球に存在してるだけで、住む場所を汚し、悲しみになき、喜びに笑い、怒りに怒る、それらすべてがいらないことだと私は思う。
長文すいません。文法めちゃくちゃですいません、好きかって書いてすいません。
こんな考えは変えたいと持っています。しかしなかなか考えても浮かびません。
なので、この文に反論、訂正などあったらコメントに書き込んでください。
長文失礼しました。これこそエゴですね・・・。
そろそろ眠れる気がするのでおしまいにします。
それでわ